第四回お話:「両論併記の容認」を「日本軍の規律」で否定した経緯(敬省略)
ユネスコには慰安婦についての二つの全く相対立する姿を記した書類が申請されました。
そして両申請団体の対話によって出来るだけ多くの書類が慰安婦の記録として残るようにとのユネスコ内審査委員会の勧告が、2017年10月に出ました。
その後に2021年4月に登録制度が承認制に変更され(ユネスコ世界記憶遺産の制度改革)、旧制度での登録申請を受け付ける為の対話の条件を決める両者の協議が、司会者を挟んで本格化しました。しかしながらそれから3年経った今でも対話は実現していません。原因は、「慰安婦の声」が代表を出す条件を拒んで来たからです。
条件を決める交渉が本格化してから「日本軍の規律」の中では、「両論併記の容認可否」と、この「代表が出席した対話」の二点で意見が分かれました。当時申請団で活動していた石川直幹が、他のメンバーに相談もせず勝手にとも云える程に両論併記を容認し公の場でも容認する発言をしました。その石川の発言を山本は擁護し援けました。
石川は、日本軍の規律を登録する事だけに集中し、性奴隷が登録されようがされまいがどうでも好い、とする主張でした。ユネスコでの対話は慰安婦が何者であるか(性奴隷であったかなかったか)を議論する場ではない、それをやっても無駄だ、日本軍が規律正しく慰安婦に対処した書類が通って認められれば、それは成果だ、両方が認められても致し方ない、両論登記になってもあきらめよう、「日本軍の規律」の登録を先ず目指そうではないか、と石川は主張しました。
細谷は石川の論が現実を無視した、却って「慰安婦の声」の主張を認める利敵行為になる事を説明し、その主張の撤回を求めましたが、石川は応じず公的な場でも主張し続けました。この熱くなった議論の時に山本は沈黙したままでした。
2022年4月にその石川と、加瀬先生、小山、目良、山本、細谷が同席した会議でこの両論併記を議論しました。議論は石川の主張を完全に否定するものでした。
この議論の際に山本が沈黙していた両論併記に関連して石川がどの団体に所属するのか、目良が石川に訊ねました。皆は山本の団体‐「なでしこアクション」に当然所属する‐石川の発言は山本が責任を負う、と思っていましたが、驚いた事に山本は否定し、石川はどこにも属していないと言明しました。会議での両論併記に関しての山本の発言はこの否定発言のみで、それ以外の発言は一切ありませんでした。
加瀬先生が石川に残って活動を続ける案として、自身の「慰安婦の真実 国民運動」への加入を石川に勧めました。しかし、両論併記を固守したからでしょうか、石川は断り、自ら会議から退去し、申請団から去りました。この会議の時には小山は石川の主張を糾弾し、石川の退去に一役を買いました。
議論は落ち着くべきところに落ち着きました。それは加瀬先生の「重し」があったからでした。
この両論併記の議論の時機にも出てきていた「代表が出席した対話」が、その次に議論になり、加瀬先生は亡くなられて、「日本軍の規律」は迷走を始めました。 次回で語ります。